昭和42年8月27日 朝の御理解

  
 拝ませて頂いておる神様という、いわゆる天地金乃神と言えば、天地を一目に見ておるぞと、仰る神様、ね。神は平等におかげを授けるが受け物が悪ければおかげが漏るぞと、天地の親神様は人間氏子の上に平等に一様におかげを下さるのぞと。
 けれども氏子の受け物が悪いとおかげが漏るぞと、こう仰る。ね、神の徳を充分に受けようと思えばままよと云う心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞと、こういう風になって参りますと信心が大変難しい感じが致しますね。
 神の徳を十分に受けようと思えばままよと云う心を出せよと。ままよとは死んでもままよのことぞと、ここんところを、難しいことはないのですけれども、なら、今日からままよと云う気になれませんものね。助けて頂きたいとね、自分の願い事が成就致します様にとお参りしておるのに、どうでも良いと云う様な気持ちになれと云うのですから難しいでしょう。
 ところが、実際はそのどうでも良いという事はもう投げやり、もうどうとかなろうたい、ね。鍋ん中にどんこんされん、どうとかなるとじゃろと、云った様なものではないのです。
 ままよと云うのは、もう神様がもうなさって下さる事ならば、お任せしますと云うそのことに、もうお任せ致しますと云う神様を信じ切ってのままよでなければ、それはぎりぎりのところの死んでも厭いませんと云う程のものでなければ、ね。死んだからと云って神の世話にならん訳にはいくまいが。死に際にもお願いをせよと、仰るようなところが段々分かって来てですね、生きるも死ぬるもこの神様のおかげを頂かなければ出来ぬのだと云う様なことが段々分かってくる、ね。そこで私はここんところをですね、神の徳を十分にうけようと思えばままよと云う心を出せ。ままよとは、死んでもままよのことぞと、いうところを頂く前に私が申します一番初めのところを皆さんがよく一つ分からなければいけませんですね。私共が拝ませて頂いておる神様はどの様な神様であるか、ね。
 御理解第二十二節のところから頂きましてですね。天地金乃神と言えば天地を一目に見ておるぞ。と仰る。天地金乃神と言えば天地を一目に見ておるぞということは、ね、隅から隅迄、云うなら私共の心の隅々迄御照覧があるんだと云うことですね。そういう神様なんです。だから、この神様からんなら逃れようたって逃れることが出来る筈がない。もう死んだからこの神様に世話にならんでよかろうという訳にはいかんです。もう天も地も神様の懐の中だもの。天国も云うなら地の果ても、ね。極楽も地獄も、根の国も底の国もこの天地の他に行くところなしなのです。だから死んだからというて世話にならんで良いと云うような神様でもないのです。どうでもこの神様のお世話にならなければ立ち行かんのが私達です。
 霊魂の世界に参りましても、この世でおかげを頂いて行くということにおきましても、これは信心があろうがなかろうがそうなのです。  ん、お前は信心しよらんけん、お前にはもう空気は吸わせんと云ったようなちんけんな神様じゃあないのです、ね。お前は信心せんからもうお前には水を与えないと云う神様でもない。もうそれこそ、平等におかげを下さっておる。もう色が黒かろうが白かろうがね。気迷いであろうが、これ一様におかげを下さるのだけれども、氏子の受け物が悪いとおかげが漏るぞ。と、こう仰っとる。ここんとこまでを皆さん良く頂かなければいかん。天地金乃神と言えば天地を一目に見ておるぞ、と云う神様。そういう神様。しかも私共が信心があろうがなかろうがこの神様のお世話にならなければ立ち行かぬ神様。ね、そこのところを分からせて頂いたのが教祖生神金光大神様なのです、ね。そこで教祖の神様はです、私共にその受け物が悪いと、と仰るから、もう受け物が悪いところを私共が本気で頂こうと云うね、完璧なおかげの受け物を頂こうと云う願いの元に信心をさせて頂く。完璧なおかげの受け物と言やあ、生神金光大神の境地なんです。生神金光大神と云うのはね、教祖様だけじゃあないと云うことです。お互い生神になれれる内容を持っておるんだ。心の中に。もうこの世に生を受けたら最後ね、生神のいわゆる分身であるそのものを私共はこの中に持っておるのだ。
 だからもう皆もこの様なおかげが受けられる、とこう仰る、ね。 段々信心の徳が出来て参りますとですね、そうした自分の心の神様の、云うなら位が一段一段上がっておいでられる訳なんです、ね。その生神金光大神のいわば境地と云うか、そういう心の状態がいわゆる完璧なおかげに成って行く。そういう完璧なおかげを目指すと云うことは、だから私共は生神金光大神を目指して信心しておると云うても、だからいい訳です、ね。そういう意味です。私共はそこんところを目指さすにです、只おかげだけを目指したところで如何に神様が降る様なおかげを下さっておっても、力を受ける様なおかげを下さっておっても、それを頂くこともすくい取ることも出来ないことが分かるでしょうが、皆さん、ね。 神は平等におかげを授けるとこう仰る。しかもおかげを下さる。そのおかげとは、どういう様なおかげかと云うとですね。もう無限である。限りが無い。人間が真実幸福になって行くことの為の一切のものがそのおかげの中に含まれておる、ね。
 お金であろうが物であろうが、ありとあらゆる、いわゆる人間の幸福になって行かなければならないものは、もうここにあるのだ。もう、何処までも行かんならんと云うことはない訳なんです。
 ここに有るのだ。それを自分の心の受け物が悪いから、受け物をその悪いいわゆる受け物が悪いとそこからおかげが漏ると云うことになってくるのです。
 これだけ信心しよるとにどうしておかげが受けられんとじゃろうかち、ね。とそれはどうしてと云うことは、神様の方へ持って行ったり人の方へ持って行ったりしたんじゃいかんのです。
 俺のおかげの邪魔はどうも誰さんがおかげの邪魔をしよるごたる。うちは家内が無信心だからそれでおかげは受けられんとじゃろ。
 家には子供どんが付いて来んから子供どんがおかげの邪魔をしよるとじゃろと、言わずにです、そういうおかげの邪魔をしておるものは自分の心の中にあるのだと、ね。どうしておかげが受けられんとじゃろうかと云うことを自分自身の心の中に問うてみなければいけんのです、ね。米を買いに行った。確かに一俵買うて来た筈だったけれども家に帰ったら八升しかなかった。おかしいおかしい。 向こうの米屋がこりゃあはあ・・あ間違わせとるじゃなかじゃろうか、ね、と云うようなことを思わずにです、ね、その私は米の袋そのものをひとつ調べてみなければいけない。はあ・・小さい穴が丁度ここにこういう穴が開いとった。ここから漏ったばいのと云うことが分かる。そこで、んならそれだけじゃあいかん。漏っとるところを繕うと云うか、修繕するところの必要が出て來る訳です。なるほど途中でここから漏っとったばいの、お互いのおかげもそうですよ。お互いの心の何処からか漏っとる訳ですね。私が申しますよ。
 ここでは私がそのささやかなおかげの一つの見本をここに頂いとる訳です。私が必要なものが必要に応じて頂けれるとこう言うておるのですよ。何時もそして私自身は十七年この方本当に私頂いて来ましたもんね。完璧とまでは行かんでも、なるほど神様は見通しだな聞き通しだな、私が必要と感ずれば、もう神様はここに用意をしとって下さる。甘いものを必要と思えば甘い物が、辛い物が必要と思えば辛い物がここにあるのである、ね。
 私が福岡に秋永先生の所へ、支部の出来よる時に暫く行っとった時であった。私が行ったんです。福岡の信者さん方がいっぱい集まってですね、お祭りの後にご直会をちょっと頂き過ぎた。ああ・・もうその昔はどんちゃん騒ぎやってましたもんね。福岡でもやっぱ例に漏れずそうでした。もう頂き過ぎてからもうそのまま酔い潰れる様にして休んでしまっておる、ね。それでもやっぱりあの五時の御祈念の時間に起きてから御祈念をするんです。もう喉が渇く、喉が渇くのと言うてから、もう本当に喉が切れるごと、もうここで本当にあの、 云うなら冷たいサイダーでも頂いたらといったようなことですたい。
 私は御理解でその事を話した。そしたら丁度話終った時にあの今思うてみると、あの川上さんですね。川上さんでしたかね、川上さんの御主人が川上さんじゃなかったかね、あれは誰じゃったかね。とにかくあのアサヒビールに勤めておった方でした。その方がそのサイダーを半ダースここに持って来て、恐らく夕べ親先生があんまりお酒召し上がりよったから、今日は喉が渇きなさるじゃろうと思うてから、というてもう襖の向こうにはもうサイダーがちゃんと来ておると云うことです、ね。美味しい玉露がある。ああこれに羊羹の一切れ欲しいなあと云うと、そこへ誰かが羊羹をちゃんともう来ておる訳です。 これは皆さんが私のいわば日常生活を見ておって下されば分かるんです。私共が巾れ一寸この終戦この方私と家内はまだ切ったことがありませんん。買ったことがありません。それでもやはり、冬には冬、春には春、夏には夏のちゃんと着物をです、誰かが何処からか集まって来ておると云うようにです、確かに私はそれを自分で体験させて頂いて思うことは、本当にこの世には私共が幸福になっていく一切のものが、ここにあるんだなあと云うことです、ね。
 ですから、んなら私共がお金ならお金でも、私がここに百万欲しいなあと思ったら、百万ここにあるんですけれども、さあそこにはです、やはり徳の受け物の程度と云うものがある、ね。私が一億円欲しいと云ったって集まって来ません。受け物が無い。
 ですから、私共が信心させて頂いてから、受け物を完璧にして行くと同時に受け物を大きくして行く。いわゆる私共の心をいよいよ豊にして行くと云うこと。いよいよ綿密なお願いものを持つと云うこと。
 私共は信心が出来んなりに大きなおかげを頂きたいと云うのはですね、大きなことは頂いとりましてもです、ね、墨を擦り溜めていない様なものです。どんなに大きな筆がありましても墨がちょっとしかないなら、二、三字しか書けんでしょうが、ね。私は墨と云うことは苦労すると云うことだと思う。
 苦労すると云うことは修行すると云うことだと思う。修行をしっかりすみためとかにゃん、ね。しっかりいわばひと味も無駄にさせんと仰ることでございますから、無駄にならない修行を一生懸命させて貰うとる。そうしていわゆる完璧な、完璧なと云うとですけれども、おかげの受けられる受け物を修繕するところは修繕するね、改まると云うことも修行である。磨くと云うことも修行である、ね。
 神は平等におかげを授ける。と、お互いが一様におかげを頂いとるんだけれども、そこに気付かずそこんところの修繕をしようとはせず、受け物を頂こうとする修行にも取り組まず、ね。
 ですから神様が一番喜んで下さるのはね、どういうことかと云うと、勿論私共がおかげを受けると云うことが一番喜んで下さるんですけれど、ね。そのおかげが受けられる為のです、修行を本気で思い立つ時に、神様がそれこそ目を輝かせてその氏子の上に見守りを下さるでしょう。いろんな援助をして下さるでしょう。
 修行がしよい様にしよい様に、神様がいよいよその氏子に特別の魅力を感じなさると云うのはね、本気で私が修行しようと云う時なのです、ね。ですから私は、修行はそれこそ、「     」皆さん「  」朝参りを「   」それを修行として頂けば修行なんです、ね。天地金乃神と云うことはね、天地を一目に見ておるぞ、ね。神は平等におかげを授けるが、ね、受け物が悪いとおかげが漏れるぞ。ですから、私共がもしお願いをしておかげが受けられるとするならばです、神様相済みません。神様は下さっておるんだけれども、私の受け物が悪くて漏れておるのでございますから、どうぞ受け物の悪いところを分からせて下さい。何処が破れておるか、何処が修繕しなければならないところかを分からせて下さい。そこんところの修行を致します。と云う信心が必要だということが分かる。そして後半のところの、ね、神の徳を十分に受けようと思えばままよと云う心になれよと。ままよとは死んでもままよのことぞ、と私共がおかげを頂く為に本気でその修行に取り組ませて貰うと云うことになってくるとですね、その修行が有難いのです、ね。そすとですね、そこには本当におかげと云うものはお願いした以上、もう右になろうが左になろうがもうままよと云う心が必ず生まれて來る。一生懸命修行がないところにままよと云う心が出らんです。
 そのままよと云う心が出る様になったらです、もう絶対お徳がついてくる、ね。そこに十二分の徳を受けようと思えばままよと云う心になれよと仰る、ね。
 ままよと云う心が頂けれる為にです、私共は先ず本気で修行に取り組まなければならないね。そこから、生まれて來るのは神様を信じきれる心。そしてこの神様におすがりしておるのであるから、右になろうが左になろうがそこはおかげであると云うことが分からせて頂く様になる時です。そこからおかげではない、もう徳が付いてくる、ね。
夕べ、土居の共励会がございました。皆と十二時頃まで、いわゆる共励を熱心にやっていたらしいです。中であの久富繁雄さんがお届されました。御祈念させて頂きよったら、御心眼を頂いとる。兎に角五人ぐらいの人の姿を頂いとる。それがその一人一人名前が付いている。それが面白いんですもん。先生、その名前が皆野菜の名前げな。かぼちゃと云う人もござりゃ、なすびと云う人もござる。きゅうりと云う人もござると云う風らしいですね。そりけ私がさしずめあなたはかぼちゃにならなければいけないだろうなと、私が申しましたね。久富かぼちゃさんにならなければいかんですよ。そして、なら次に出られたことが、ちょっと水道を捻ったところが水がジャージャーやって出よるとこじゃった。
 もう私共がですね、願う心と云うのはあの水道の栓をちょっと捻るようなもんです。もうそこにずーっと必要なだけのお水が頂けるのです。ね、そのように天地の親神様のおかげ、お恵と云うのはここに一杯あるのです。それを捻ろうと思っただけね、ところが受け物が悪いと、幾ら一升ますを持って行ってからどんなに水がジャージャー出よったって一升しか受けられない。一斗のいわゆる受け物を持って行って初めて一斗のおかげが受けられる様なもんです。為には久富繁雄さんが頂いておられる私共が先ずいっちょ本気で馬鹿になることですよ。かぼちゃになることですよ。あれは馬鹿じゃなかろうか、あれはボウフラのごたる奴じゃ、と云った様な馬鹿の代名詞の様に申しますでしょうね。馬鹿になる修行も素晴らしいですね。
 何を言われても障らんと云う豊かな大きな心です。皆さん本気で馬鹿になる修行をしなければいけませんよ。
 馬鹿と阿呆で道を開くのぞ。と仰る。本気でひとつ馬鹿と阿呆にならせて頂いて、ね、例えば秋山ゆり子さんじゃなくて、秋山かぼちゃさんと云うごたる風にならにゃいかん。そこに秋山例えばなすびさんと云うことになってくる。なすびのお知らせは安心のおかげですね。そういう安心のどの様な場合でも安心しておれる様な境地が開けてくるのです。きゅうりさんも必要になる。きゅりと云うのは、久しい利と書いてあるから、これはお徳と云うこと。ね、
 そのお徳が頂けれる為には、先ず一つかぼちゃにならせて頂く様な信心を本気でさせて貰わねばいけませんね。そういう修行に本気で取り組まにゃいけんのです。そして今日のこの御理解二十二節をもう一っぺん良く分からせて頂かにゃいけんのですね。

 御理解第二十二節 天地金乃神と言えば天地を1目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが受け者が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えばままよと云う心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。と云うことになっておる。 どうぞ。